芸能活動30周年を迎えた、ジャニーズ事務所所属の歌手・近藤真彦(45歳)が2月13日、東京の日本武道館で、デビュー30周年記念コンサートを開催しした。
近藤真彦・・・・
MOTTO!MOTTO!・・・MOTTO!MOTTO!・・・・
近藤真彦は4月から7月にかけて(地方都市計14カ所)、全国ツアー(「あの街この街マッチとデート 想い出ツアー」)を敢行することを発表。
近藤真彦にとって、1989年以来、21年ぶりとなるツアーで、「夢だったので本当にうれしい」と興奮気味に語る。
近藤真彦はデビュー30周年記念コンサートで、デビュー曲「スニーカーぶる~す」から2月22日発売の新曲「ざんばら」まで25曲を熱唱し、健在ぶりをアピールした。
武道館にはゲストとして、たのきんトリオ時代の盟友・野村義男も登場!
近藤真彦は、自らのレーシングチームを設立し、フォーミュラ・ニッポンやSUPPER GTに参戦するなど、レース活動に軸足を置いていた。
2006年、近藤真彦は25周年記念ライブを日本武道館で開催し芸能活動を再開した。
近藤真彦は「25周年で戻ってきて5年間突っ走ってきたけど、全国ツアーに出るのは夢だった。本当にうれしい」と表情を引き締める。
「あの街この街マッチとデート 想い出ツアー」と銘打つ全国ツアーは、北海道から沖縄までを縦断する。
近藤真彦自身の意向で大都市はあえて避け、アイドルとして絶頂期だった1980年代にツアーで回ったことがある地方都市をめぐる予定。
近藤真彦は、「ウチ(ジャニーズ事務所)の連中もメジャーな都会ばかり回っているけど、それではダメ。本当の全国ツアーはこれだよ!」と。
全国ツアーと並行し、レース活動やF1解説の仕事もしていくため、「実は結構大変」と漏らしながらも、「各地に思い出がいっぱいある。懐かしいよ」と、今から胸の高ぶりを抑えきれない様子。
4月から7月にかけて(地方都市計14カ所)、全国ツアー(「あの街この街マッチとデート 想い出ツアー」)は、第1弾であり、「まだ第2弾がある」とも。
芸能活動30周年に合わせて30カ所以上を回る予定で、「1年かけて行ってきます。これからもマッチ、やります!」と日本武道館に詰めかけた1万2000人を前に宣言した近藤真彦。
2月13日、日本武道館でのライブは、初期の「ギンギラギンにさりげなく」(1981年)、日本レコード大賞受賞の「愚か者」(1987年)、最近の「-MOUTTO-」(2009年)、新曲「ざんばら」(2010年)など、新旧ファンを酔わせる構成だ。
近藤真彦は、「30」と書かれた巨大セットとともに地上15mまで浮上しながら「Made in Japan」(1988年)を派手な登場で歌う。
「来たぞ30年!やったぞ30年!感謝してます!」と、近藤真彦はハイテンションだった。
近藤真彦が2月22日に発売した新曲「ざんばら」が、2月24日付有線J-POPリクエストチャートで1位を獲得した。
新曲「ざんばら」は、2008年に亡くなった作詞家・川内康範が近藤のために遺していた幻の歌詞から曲作りを始めて完成した1曲。
近藤真彦は「たくさんのリクエストに大変感謝します。まだまだいろんな人の耳に届くように歌い続けていきます!!」と喜びのコメントを寄せている。
約20年前、故・川内康範が「マッチに歌わせたい」とジャニーズ事務所に託した詞が最近発掘され、2人の作曲家がロック調とフォーク調の曲をつけた。
新曲『ざんばら』・・・・
「心 ざんばら」
- 作詞:川内康範/作曲・編曲:HΛL
- ロック調に制作されたナンバー
「恋 ざんばら」
- 作詞:川内康範/作曲・編曲:TSUKASA
- フォーク調に制作されたナンバー
近藤真彦と故・川内康範は、面識がないものの故・川内康範が近藤真彦に大きな関心を抱き、近藤真彦が「愚か者」で日本レコード大賞を受賞した2年後の1989年に故・川内康範は親交のあったジャニーズ事務所の藤島メリー(メリー喜多川)副社長に、「マッチに歌わせたい」と「振り乱れた髪」を意味する「ざんばら」と名付けられた詞を渡した。
当時、近藤真彦の母親の死などの不幸があり、藤島メリー(メリー喜多川)副社長は、近藤真彦に謳わせるには重たすぎる詞ということで封印したのだ。
25歳の近藤真彦にとって故・川内康範の詞「ざんばら」は重かった。
それから20年過ぎた今の近藤真彦は、「ざんばら」の封印を解いた!
ざんばら ばらばら~ 恋が砕けて
ざんばら ばらばら~ 心が死んで
ざんばら ばらばら~ 鬼火が燃える
ざんばら ばらばら~ 鬼火が燃える
ざんばら ばらばら~ 鬼火が燃える
ざんばら ばらばら~ 鬼火が燃える
たしかに重そうだ・・・・
★近藤真彦、川内康範、H∧L、TSUKASA「ざんばら」
★中森明菜 歌姫の全作品集
近藤真彦が「愚か者」で日本レコード大賞を受賞したのは1987年。
愚か者よ~今夜は・・・眠れよ♪
近藤真彦は田原俊彦や野村義男と「たのきんトリオ」として人気を博し、1980年に「スニーカーぶる?す」で歌手デビューする。
田原俊彦が能天気、いや、明るさいっぱいのアイドルだとすれば、近藤真彦はちょい硬派なアイドルっぽいキャラとして登場した。
近藤真彦は1987年、「愚か者」で日本レコード大賞を受賞したのだが、前年度の1986年に受賞したのは、中森明菜で受賞曲は「DESIRE -情熱-」。
中森明菜は第27回「ミ・アモーレ〔Meu amor e・・・〕」(1985年)、第28回「DESIRE -情熱-」(1986年)と、2年連続で日本レコード大賞を受賞していたのだ。
「ちょっとエッチな
1982年、「スローモーション」で歌手でデビューした中森明菜は、3rdシングル「セカンド・ラブ」でアイドルとしての地位と人気を確立した。
アイドルから歌姫として・・・・中森明菜は歌手として熟成していく一方で、デビュー間もなく交際していた近藤真彦との関係がぎくしゃくしていくのだった。
1987年の中森明菜は「ジプシー・クイーン」「難破船」などヒット曲を連発し、3年連続日本レコード大賞を受賞すると目されていたが、藤島メリー(メリー喜多川)副社長に「近藤真彦との結婚を許してあげるから、マッチのためにレース(日本レコード大賞)から降りて」と頼まれたということも言われている。
このような近藤真彦と中森明菜の噂話はいくらでもあるのだが、近藤真彦との交際で結婚願望が強い中森明菜が情緒不安定になることが多々あり、喧嘩が絶えず、自殺未遂を繰り返すことに・・・・
中森明菜が自殺未遂すれば、翌日に予定されているコンサートはドタキャンされてしまうこともあった。
中森明菜の育ての親といわれる元所属事務所(研音)の幹部は、「1989年7月のときも、明菜が自殺未遂したと聞いて、またかと思った」と当時を振り返る。
病院に駆けつけると、すでに、マッチの芸能界の母親代わりであるジャニーズ事務所の女帝・藤島メリー(メリー喜多川)副社長が病院におり、中森明菜に「あなたは、研音に騙されているのよ」という嘘を吹き込んでいたのだ。
中森明菜は近藤真彦のレース活動に莫大な資金をに貢いでおり、金銭問題も喧嘩の一因であった。
結婚するかと思えば、レースに打ち込んでしまう近藤真彦・・・・・
それでも近藤真彦の夢ならばと助力する中森明菜なのだが、いつまでたっても煮え切らない態度に憤りと不安を感じることは理解もできよう。
藤島メリー(メリー喜多川)副社長は、近藤真彦を守ろうと、中森明菜に対して「あなたは事務所に騙されている。不当に搾取されている」というようなことを吹聴し、不満の矛先を研音に向かわせのだ。
近藤真彦の母親代わりの藤島メリー(メリー喜多川)副社長の言葉・・・
藤島メリー(メリー喜多川)副社長の言葉を信じた中森明菜は、藤島メリー(メリー喜多川)副社長の勧めで、近藤真彦のレコーディングディレクターだった小杉理宇造(現ジャニーズ・エンタテイメント代表)をスタッフにつけて、新事務所を設立させて、研音から中森明菜を移籍したのだが、活動を再開しないうちに小杉理宇造が事務所を辞めてしまい、中森明菜はハシゴを外されてしまった。
中森明菜は気づく!
中森明菜は近藤真彦と破局し、藤島メリー(メリー喜多川)副社長とも縁をきるのだが、研音とジャニーズの2大芸能プロダクションと険悪な関係になったわけで、中森明菜はその後転落していくのだった。
1994年6月21日、近藤真彦は、元会社員の敦子と結婚、入籍した。
近藤真彦と、元会社員の敦子とは、1989年頃から交際をはじめ結婚に至る。
1989年7月、中森明菜が近藤真彦のマンションで自殺未遂し、研音から離れ、音楽活動ができないような状況に追い込まれたタイミングと被る。
近藤真彦と元会社員の敦子の交際は共通の知人からの紹介いで、出会ってすぐに「結婚する」と直感したと語っていた。
1991年にデートで交際が発覚し、その後「「絶対に結婚したい人」、「真剣にいい形で交際させてもらってます」と、多く語ることはなかったが、近藤真彦の結婚する意志は強かったと。
近藤真彦は、入籍・結婚会見の際、かつて交際していた中森明菜について「人というのは出会いがあって別れがあり、成長していくものだと思います。出会いも別れも大切にしていきたい」と、既に気持ちの整理がついていることを強調した。
一方、中森明菜も月刊誌「マルコポーロ 1994年1月号」(文芸春秋社)で「近藤さんのことは私はもう何とも思っていません。(中略) 今は普通のカップルが婚約したのと同じ気持ちで『あ、おめでとうございます』って感じなんです、本当に」と、吹っ切れた様子でエールを送ったのだ。
2007年10月8日、近藤夫婦に待望の男児が誕生している。
近藤真彦は歌手であり、趣味がこうじて、レーシングチーム「KONDOレーシング」を運営する株式会社エムケイカンパニーの代表取締役社長兼チーム監督を務めるようになった。
また、ジャニーズ事務所所属タレントであり、ジャニーズ事務所の取締役を務めている。
近藤真彦 45歳。
近藤真彦 芸能活動 30周年。
近藤真彦の芸能活動は1988年から5年前まで副業であり、レースが主業になった感があります。
近藤真彦によれば、ジャニーズの停滞期に救世主のごとく登場した「たのきんトリオ」であり、富をもたらしたことで、「レースがしたい!」という近藤真彦の我儘を「どうせすぐ飽きるでしょ!?」と藤島メリー(メリー喜多川)副社長が許したことから、近藤真彦の人生が転化することになったのだ。
20代半ばまでアイドルとして突っ走った近藤真彦は、30代になったとき、「マッチ」と呼ばれることや、「ギンギラギンにさりげなく」を歌うことも躊躇った時期がある。
もう、そんな年でもないだろ!・・・・ってね。
しかし、45歳になった現在の近藤真彦には、そのようなためらいはない。
マッチと呼ばれアイドルとして騒がれた日々・・・・
キラキラと「ギンギラギンにさりげなく」を歌っていた日々・・・
そして、中森明菜と同じアイドルとしてデートすたままならなかった日々・・・
近藤真彦にとっては、過去のすべての出来事があったからこそ、今の自分がいるのだと思うのだ。
ざんばら ばらばら~ 恋が砕けて
ざんばら ばらばら~ 心が死んで
ざんばら ばらばら~ 鬼火が燃える
ざんばら ばらばら~ 鬼火が燃える
ざんばら ばらばら~ 鬼火が燃える
ざんばら ばらばら~ 鬼火が燃える
少年のまま MOTTO!MOTTO!MOTTO!MOTTO!
少年のまま MOTTO! 永遠に
熱くなれ!MOTTO!MOTTO!MOTTO!MOTTO!
感じてろ!MOTTO! 青春を
俺の胸を走る愛のイナズマよ
燃えろ!!

















































