2009年12月11日、鳩山由紀夫は、中央障害者施策推進協議会で障害者差別禁止法の実施を前向きに考えたい述べた際に 「障害者という言葉よりも、チャレンジドの方が望ましい。いろいろと新政権で考えていかなくてはならない」という例えを添えた。
昔は、片端(かたわ)は、不完全、不格好な物を意味し、身体に不完全な部分があること、または、体が不自由な人なども意味した。
現在、片端(かたわ)は、差別だとし禁句であるという認識する人たちが多そうだ。
そういう意味では、放送禁止用語(自主規制)として、次のように表現している。
- おし、めくら⇒視覚障害者
- つんぼ⇒聴覚障害者
- かたわ⇒身体障害者
- 気違い⇒精神障害者
- 白痴⇒知的障害者
さて、差別用語というものは、"差"を表現する際、用いた言葉で相手を不快や侮辱されたと批判が高まれば、差別用語として自粛する向きがあります。
そして、不快、侮辱ということでは、侮辱罪として親告しているケースもあるようです。
そういうこともあり、"公"に放送するテレビやラジオ局などの、放送禁止用語は、厳しめに自主規制をしているのだと感じています。
2009年12月7日、内閣府大臣官房政府広報室(世論調査担当)は、「男女共同参画社会に関する世論調査の結果」を発表しました。
「職場」では5割、「社会通念・慣習・しきたり」では7割の人が「男性の方が優遇されている」と答えており、男女別では女性の方が「男性が優遇されている」という結果だったことを受け、これもまた、女性差別だと運動する者たちも少なくはなかろうと。
さて、差別というのは、差異であり、区別でもあると思います。
そして、"差"というものに優劣をつけ他人を蔑む、侮辱することがあるならば、卑しいということだと感じますが、"差"を感じるということは"悪"であるとは一概に思いません。
要は、悪意をもって"差"を表現しようとする言葉ならば、相手もより不快になり侮辱されたと思うでしょう。
逆に、好意をもって「バカだな~」と表現しても、相手は不快、侮辱されたと感じないこともあるかと。
例えばニートという言葉がある。
労働厚生省の定義は、非労働力人口のうち、年齢15歳-34歳、通学・家事もしていない者」としており、平成16年「労働経済白書(労働経済の分析)」(「年齢15-34歳、卒業者、未婚であって、家事・通学をしていない者」)とする。
また、内閣府では高校や大学などの学校及び予備校・専修学校などに通学しておらず、配偶者のいない独身者であり、ふだん収入を伴う仕事をしていない15歳以上 34歳以下の個人である」と定義。
ニートという表現は統計上の括りであり、単純にいってしまえば、15歳以上 34歳以下の個人で、通学、就職をしていないことを問題視する意図があると感じています。
労働ということで考えると"無職"という表現があるのだが、年金暮らしや専業主婦も含まれているため、イギリスの影響を受けた?厚生労働省が「若者が働かないのは問題だ!」ということで、括ったのではないかと。
政治家がニートに関する資料などを含め、2009年7月1日「子ども・若者育成支援推進法」(PDF)を成立させた。
「子ども・若者育成支援推進法」の成立させる背景は、有害情報の氾濫等、子ども・若者をめぐる環境の悪化(ニート、ひきこもり、不登校、発達障害等の精神疾患など子ども・若者の抱える問題の深刻化、従来の個別分野における縦割り的な対応では限界)とする。
雇用、福祉、医療、教育、矯正・更生保険などを総合的に改善することによって、子ども・若者育成支援する方向のようだ。
一方、"ニート"は、不快、侮辱を目的として使われるようにもなった。
自虐的に笑として自ら称する人達もいるのだが、ニート=社会悪という解釈で、悪意をもって用いることも少なくはないと感じます。
相手を蔑むことや不快にさせたいと使用する人たちにとって、「就職していない、通学していない」ことは、馬鹿にする対象ということなのだろう。
ITバブルで、マスコミも含めて"勝ち組""負け組"という表現が企業にたいすることから個人に対して使うようになる。
また、フリーターは「自分の自由の時間を大切にし好きなことをする」と、若者にとって"カッコよさ"の風潮もあったのだが、今ではニート同様に馬鹿にする表現として使われることも多くなっている。
人は無からの創造ということではなく、必ず何かに影響され、何かと比較したがる生き物だと思います。
他人と比較することで欲が増大する。
煩悩をなくせ!ということはできるはずもなく、それができた時には、無(空)の境地であり、欲がない代わりに、人の人とする向上心や探究心もなくなるだろう。
つまり、過ぎる欲というものを抑えるということは必要だが、"差"を感じること自体は悪でも善でもないと。
鳩山由紀夫が「障害者という言葉よりも、チャレンジドの方が望ましい。」と述べたのは、それほどまでに、"障害者"ということで区別され、蔑まれたり侮辱されているということが多いのだろうか?
そして、"障害者"から"チャレンジド"と表現すれば、蔑まれたり侮辱されるということは減少するのだろうか?
鳩山由紀夫が障害者=差別用語と思っているわけではなく、アメリカで用いられた"challenged(神様に挑戦するという運命を与えられた人たち)"ということで、前向きな意味合いで過ごせるような立法を考えていくと述べたかったのだろうとは感じますし、障害者と呼ばれて不快に思う人達も少なくはないと思います。
たしか、アメリカは"challenged"と表現する前は、"handicapped"だったような・・・・
challenged という言葉を使うとしても、challenged と、challengedでない人を区別している。
そもそも、区別する必要がなければ、障害者という言葉すら必要ないと感じますが、区別しないとならない事情があるから(challengedという表現であっても)用いられてきたと思います。
それは、差別されて蔑む、不快、侮辱ということではなく・・・・
いすれにせよ、"差"があり区別するために必要とされ、生まれる言葉だと思うが、言葉の解釈を良く感じさせるか?悪く解釈させるかは?その後使う人たち次第であり、良かれと命名しても、差別用語やら、これは差別だ!とセンシティブに批判されてしまうこともあるとは、興味深いところです。
関係ないですが、「適当にしとくわ」と同僚が話したことをフト思い出したところで、本記事は終わりにします。

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